RAINBOW　CHASER





１



　

「なに怒ってるの？」
　夕食の席を立ったマルフォイを戸口で待ち伏せて捕まえ、廊下を人気のない方を選んでずんずん進み、空き教室のひとつに引きずり込んで、ハリーは問うた。昨日あたりから、マルフォイの態度がおかしいのだ。まるで拗ねているみたいだった。
「怒ってなんかいないっ」
　充分怒ってるじゃないか。ハリーはわざとらしく溜息をついて、壁に追いつめたマルフォイの細い肩を両手で壁に縫い付けた。気丈に睨み返してくる青灰色の瞳が、確かに咎める色を帯びている。日はとっくに暮れたけど、今夜は満月が明るくて、影ができるほどだ。
「なにに怒ってるの？」
「貴様には関係ないっ」
　嘘だ。すぐ判る。マルフォイは正直だから、顔色や口調で嘘かどうかなんて察しがつく。
「僕が、君の機嫌を損ねることをしたの？」
「うるさいっ」
　叫んでマルフォイが首を逸らした。
　図星か。ハリーは目を細めた。
　先の幼児化事件でマルフォイとハリーは和解した。少なくともハリーはそう思っている。ハーマイオニーもロンも、先生達も。あれからしばらく、マルフォイは可愛かった。からかえば向きになって突っかかってくるけれど、そこにかつての毒はなく、逆にやり込めることだってできた。和解の経緯は学校中が見ていたこともあり、誰もが二人の不器用な交流を見守ってくれていると思っていた。甘かった。
　二人の対立は、スリザリンとグリフィンドール、因縁ある二寮の代理戦争でもあった。マルフォイの変節は、それに便乗していた連中には面白くないものだったのだ。実際、スリザリンの上級生にハリーも質の悪い嫌がらせを受けている。人を傷つけることには長けた寮だ。スリザリン生は一番弱い部分を的確に突いてくる。彼らから見て裏切り者であるマルフォイがその対象になることは十分に考えられた。スネイプのフォローにも限界はあるのだ。まして人一倍照れ屋な彼のことだ。悪質な嫌がらせでないにしろ、余人の他愛ないからかいにも過剰に反応する。その反動で自分に対してあらぬ蟠りを抱えこんだであろうことは容易に想像できた。
「なにを言われたの？」
　押しつけていた肩を掴んで引きよせた。
「気安く触るなっ」
　壁に縫い付けたときよりは自由の利くようになった体を捩り、ハリーの手を振り払ってマルフォイが喚いた。睨んでくる瞳が濡れているように見えた。踵を返して逃げようとするのを背中から抱き締めて、床にしゃがみ込んだ。
「ねぇ、なにを言われたの？」
　肩に顔を寄せ、耳に囁くように尋ねる。
「僕らは友達だろう？隠さないで、教えてよ。一緒に考えようよ。親友だろ？」
　腕の中の体が固くなって、小刻みに震えだした。
「ドラコ？」
「嘘つきっ」
　振り返ったマルフォイに罵倒された。ハリーは驚いて声が出なかった。マルフォイの頬が涙で濡れていた。腕の力が緩んだ。

2002/08/24　




２



　


「貴様の親友はウィーズリーじゃないかっ。僕は、僕は…その他大勢の友達のひとりにすぎないじゃないか…。なにが親友だっ！嘘つきっ！」
　甲高いボーイソプラノが胸を抉った。そうだった。彼は自分の隣りに立つことを夢見ていたのだ。でもそこは、既にロンの指定席になっていた。誰もが知っている当然の事実。ハリー・ポッターの無二の親友、ロナルド・ウィーズリー。和解したとはいえ、マルフォイはそこに入れ替われたわけではない。
（それが気に入らないのか。）
　彼だって理解はできているはずなのに。僕らは和解したばかりだ。すべてはこれからなのだ。それなのに内心は悔しさでいっぱいだったのか。
　端から見れば、マルフォイがハリーに折れたように見られていた。誰よりも誇り高い彼が、膝を屈した代償。望んだ場所は手に入らず、彼が見下してきたロンの下に位置付けられた。その悔しさを上級生達が煽ったのか。
「親友はひとりじゃない。ハーマイオニーだって親友だ。君も…」
「詭弁だっ」
　肘鉄を食らって、腕の中から逃げられた。這い出すようにしてハリーから離れたマルフォイが、右手と膝を突いたままハリーに向き直り、睨み付けてきた。
　怒っていると言うより、傷ついているのだと感じた。ハリーはマルフォイがなにを嘆いているのかが判った。唯一絶対でなければ、マルフォイは満足できないのだ。
（そうか。マルフォイは特別になりたいんだ。そう思える証が欲しいんだ）
　マルフォイの餓えがわかる気がした。
「判ってないのは君だよ、マルフォイ。君とはロンともしないことしてるんだよ？気がついてなかったの？」
　こっちが傷ついちゃうよ？肩を竦めてみせた。叩きつけた憤りが肩透かしを喰らった形になったためか、マルフォイは呆然と力の抜けた顔つきで腰を落とした。きょとんとなった顔が可愛い。
（こういうところって、ちびたときと変わらないんだな）
　たった二晩の出来事が、ハリーの中でマルフォイの印象を変えてしまった。それだけではない。彼はハリーに人肌の暖かさを教えてしまったのだ。ハリーは、人を腕の中に抱き込んで、その呼吸と心拍とを感じながら眠る心地よさを覚えてしまった。それまで味わったことのない、暖かさと幸福感をもたらす行為として。
　ハリーは物心ついてからずっとひとりだった。誰にも抱きしめられず誰を抱きしめることなく、人肌の温もりを知らずに育った。そういうものだと思っていた。ホグワーツに進学してから、感極まったとき学友達と抱き合うこともあったけれど、それは高揚した感情を分かち合う行為であって、マルフォイを抱いて眠ったときとは明らかに違っていた。
　ハリーは身を乗り出し、マルフォイの左頬に右手を添え、右頬に軽くキスした。あの晩、眠る前にしていたように。
「こんなこと、ロンとしたことないよ。いいや。今まで誰ともしたことなかった。君が初めてなんだよ？知ってた」
　見る見る朱に染まる白皙が可愛い。わたわたと慌てるマルフォイを抱き込み、額をくっつけた。
「こんな風に抱き合うのだって、君とが初めてなのに、どうして疑うの？」
「そんなの、知ったことじゃないっ」
「酷いなぁ」
　ハリーは苦笑した。
「僕の特別になりたいんでしょ？」
　マルフォイが言葉に詰まったのが判った。なんてわかりやすいんだろう。こういうのを可愛いって言うんだろうな。口に出せば、マルフォイはぷりぷり怒ってしまうのだろうけど。
「僕と、特別になる？」
　どうすればいいのかは、本能が知っている。
　ハリーは両手でマルフォイの頬を包み込み、唇を重ねた。
2002/08/25　




3





　柔らかいけれど、頬とは違う粘膜の儚さに鳥肌が立った。ゆっくりと離し、目を見開き硬直したマルフォイに微笑みかけ、もう一度重ねた。
　なだめるための方便だった。なのに、触れた唇は予想以上に熱く柔らかくて、はきだされる吐息は甘く感じられた。そそられた。
　ハリーは舌先でマルフォイの唇を湿らせ、上唇を啄み、甘エビのような感触を楽しんだ。
　息苦しいのだろう、マルフォイがくぐもった声を漏らし、眦に涙を浮かべて、両手でハリーの胸を押して引き離そうとしてきた。ハリーは唇の角度を変え、食らい付くようにして唇を割った。矯正でもしたのか、整然とした歯並びを舌でなぞり歯肉のつるりとハリのある感触。頬に添えていた右手を下顎にかけ、骨を押さえて、噛みしめられた歯列を割って、口内を侵した。噛みつかれないよう顎を押さえつけたまま、逃げる舌を絡め取る。ざらりとした舌触りと弾力のある肉の存在感。滲みだしてくる唾液でぬめる口腔は暖かく、羊水につかり子宮に包まれているような錯覚を覚えさせた。
　胸を押していた手が拳となってハリーを打った。右腕で両腕毎背中から抱きすくめ、無心に貪った。貪る毎に上体が傾斜し、マルフォイの抵抗が止み、彷徨う腕がハリーのローブにすがる頃には、床に縫い付けんばかりになっていた。唾液が溢れて、マルフォイの細い顎を濡らし、衿とネクタイとの色を濃いものに変えた。
　肩で息をしながら、ハリーは頭を上げた。ずり下がった眼鏡を掛け直し、前髪を掻き上げる。マルフォイは床に仰向いたままだ。目の焦点が合っていない。意識が混濁しているらしい。長すぎたキスに息が上がったのか、それとも同性にキスされたことに驚きすぎたのか、その心の内をハリーは知ることができないでいた。
　彼は手の甲で唇を拭った。二人の唾液で濡れた手の甲を、ぺろりとなめた。
　同性とマウストゥマウスでキスするなんて想像したこともなかった。触れるだけで済ませるつもりだったキスは、その柔らかさに魅せられて、貪欲な欲望に取って代わられた。
（マルフォイをなだめるためにしただけだったはずなのに）
　ほんのりピンク色に染まり、とろりととろけそうな瞳で宙を見上げるさまが、その先をねだっているようで（もちろん本人にその自覚はないのだろうが）ハリーは無意識に生唾を呑み込んでいた。
　ロンが親友であることに、疑いの余地はない。誰にも譲れない大切な友達だ。
　ダーズリー家という異常な家庭を間近に見て育ったハリーにとって、ウィーズリー家は理想そのものだった。叶うものなら仲間に入れてほしかった。彼らの家族になりたかった。
　ジニーと結婚したら、僕は彼らの家族になれる。あの厳しくて優しい両親が僕の両親になる。あの個性豊かな兄弟達が僕の兄さんになる。幸いジニーは僕に好意を持ってくれているし…と、真剣に考えたこともあった。けれども、その時気がついたのだ。ジニーが自分を見ていないことに。「有名なハリー・ポッター」に憧れる子供でしかないことに。
　四年生にもなれば誰もが色気付いてくる。誰と誰が付き合っているとか、誰が誰に気があるとか、そういう噂がひっきりなしに飛び交うようになる。ハリーも女子に興味がないわけではない。それなりに気を引かれる女生徒もいた。恋の駆け引きを繰り返し、経験を積むうちに判ってきたことがある。女は計算高い生き物だと。
　ハーマイオニーのきっぷのよさや頭の回転の速さには低学年の頃から驚かされていた。そしてともすれば女子生徒から浮きがちな彼女を見ていて、彼女は特別なのだと思っていた。けれどもそれは違っていた。その能力を使う対象が違っていただけだ。ハーマイオニーは向学心にそれを注いだ。女子共は恋愛ごっこにそれをつぎ込むのだ。おしゃれに腐心し、恋愛ごっこに一喜一憂する。
　恋愛ごっこ。そう、あれは恋愛じゃない。ハリーはそう思う。遊戯だ。なぜなら彼女らは相手を見ていない。自分自身しか見ていない。愛される自分、それを演出することだけに血道を上げている。ボーイフレンドは己の魅力を計る尺度でしかない。より難易度の高い男を獲得した者が、その他の女子より優れているのだと誇る。ボーイフレンドがわがままに何処までがまんできるかで、愛されている深さを測る。ナンセンスだ。
　控えめで大人しいジニーは、そうではないと思った。いいや、思いたかった。だけど、彼女の自分を見る目の中に、これまで関わった女子達と同じ色を見つけてしまったとき、ハリーの気持ちは一気に冷めた。今思えば、些細なことだった。それまでの女の子たちよりはるかに些細で、ジニーでなければ気にしなかったろう。でも気になってしまった。そうして気がついた。ジニーを利用していた自分に。彼女を利用してウィーズリー家に連なろうとした自分の虫の良さに。彼女の恋心が未熟な憧れからそれ以上に成長しようとしていたときだった。
　ハリーは気がついた。許せないのは、彼女ではなく自分自身だと。彼女に資格がないのではなく、自分に資格がないのだと。
　自分自身が嫌になった。悩んだすえ、ロンにうち明けた。彼は頷いて、肩を叩いて、笑ってくれた。「馬鹿だなぁ。兄弟にならなくったって、僕らは親友だ。兄弟以上なんだぜ」と。救われたと思った。
2002/08/26　




４



　ロンは親友だ。これまでも、これからも。マルフォイがどんなに望んでも、その席をすげ替えるなんてできない。だけど、マルフォイも可愛い。知れば知るほど手放したくなくなってくる。側にいて欲しいと思ってしまう。マルフォイだけなのだ。ハリー・ポッターという肩書きを蹴倒してハリーに突っかかってきたのは。ハリー・ポッターでない僕自身を見つけてくれたのは。
（僕、やばいかも。）
　ハリーは慌てて頭を振った。
　息を吹き返したマルフォイの上気した頬に手を添え、乱れた髪を手櫛で梳いてやりながら語った。
「ロンと比べるなんてできないよ。君は君だもの。僕の側にいて欲しいって本気で思っているの、信じてくれないの？」
「…信じられるかっ」
　毒づくマルフォイにハリーは笑った。
（言葉と裏腹に、顔真っ赤だよ？気がついてないだろうけど）
「…もっと特別になったら、信じてくれる？」
　抱き起こして肩を抱き、耳に注ぎ込むように囁いた。その先を匂わすように、腕に力を込めた。
「…正気か？僕は男だぞ？」
「君のためなら、どんな汚名でも」
「馬鹿じゃないのか」
「そう？でも、この席はいつだってひとりしか座れない。君が唯一絶対を望むなら、最適だろう？不満？」
「…勝手にしろっ」
　むくれた唇は悪態をついたけれど、ハリーはマルフォイのあまのじゃくぶりを知っている。
「うん。する。君が誰かを恋人にするまで、僕の特別は君だからね」
　僕を見ない恋人なんていらない。だから当面できそうにない。しばらく空席が確定してるんだ。マルフォイを据えたって問題ない。マルフォイが誰かとくっつくまでの間、マルフォイが僕らとの友情に不安を抱かなくなるまでの間、彼を僕の恋人にしよう。常にひとりだけの特等席。それなら君だって安心してくれるだろう？
　抱きしめて、頬ずりした。暖かい。懐かしい甘い香り。あのときの感覚が蘇ってくる。共に抱き合って眠った二晩の夢。体温と心拍と吐息と、あのときの全てが再びこの腕の中にある。この安堵感。
（僕のだ。）
　わき起こった感情の名は独占欲。
「友達は沢山作れるけど、恋人はいつだってひとりだけだ」
　囁きながら、今夜からでも一緒に眠りたいと思った。この温もりが幸福な夢を見せてくれる。僕の渇きを潤してくれる。
「今夜、泊まりにおいでよ」
「寝言は寝て言え」
「じゃぁ、僕が行ってもいい？」
「スリザリンに？これるものならな」
　鼻先で笑われた。
「約束ね。君のベッドを探し当てたら、僕と寝ようね」
　変な意味なんてなかった。ただ抱き合って眠るだけだ。それだけのことだ。実際それだけだったんだ。
　感じるだけで満たされるはずの温もりが、いつしかそれ以上の欲望に取って代わられることになることを、未熟な僕らはまだ知らないでいた。
2002/08/27　脱稿　
RAINBOW　CHASERは虹を追う人＝夢想家。

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