ユートピア２２

ユートピア

２１

「！？」
　目を戻したマルフォイの足元に、母が崩れ落ちていた。
「母上！！」
　マルフォイは跪いて母を揺さぶった。
　なにが起きたのか、わかりたくなかった。父が母に手を下したなどと、そんなことあってはならないのだ。
「母上っ！！母上っ！！！」
　闇の魔法は呪文ひとつで人の命を消し去ってしまう。その恐ろしさを、彼はよく知っていた。何ら外傷残さず、呻く間もなく、瞬時に吹き消される命。にもかかわらず、死に顔は壮絶で、短い時間に圧縮された恐怖に苛まれ、悶絶死させられたことは容易に想像できる。闇の魔法使いが、反対者に、裏切り者に、好んで使う魔法。それを父は母に使ったというのか。
　何度も呼ばわり、俯せの母を抱き起こした。艶やかだった金髪が輝きを失いって絡まり、脂汗の浮かんだ額に、頬に、貼り付いていた。苦痛に歪む貌。青く変色した唇が戦慄き、低い呻き声がこぼれた。
（生きてる！）
　マルフォイは懐から杖を取り出し、知りうるかぎりの治癒の呪文を並べ立てた。なにひとつ効かない。
「母上！お気を確かにっ」
　細く乱れた息を繰り返す母に呼びかけながら、マルフォイは無力な自分に歯噛みした。白くみずみずしかった母の肌から潤いが失せてゆく。見る見る乾いて、皺が刻まれてゆく。このままでは…。
「父上！父上っお願いです！」
　マルフォイは天を仰いで慟哭した。
　母上を助けて！！
　ざらりとささくれた感触が、涙に濡れたマルフォイの頬に添えられた。
「…母上？」
「…逃げなさい。…早く…。もうすぐ…から…早く」
　喘ぎの中からとぎれとぎれ促される言葉に、なお涙した。
　できるわけがない。マルフォイは頭を振った。
「なにをしている？」
　遠くから怪訝そうに問われた。
「父上！母上になんてことをなさるのですか！」
「…不貞を働いたのだ。当然の報いだろう？」
　マルフォイは言葉を失った。母の不義を肯定するのはすなわち、自分が実子ではないと認めたと言うことではないのか？
　父上は、僕が実子でないとお認めになるのですか？
　問えなかった。肯定されるのが怖かった。
「それで？どうするのだ？来るのかね？逃げるのかね？」
　苛ついた声だった。
　問われるまでもない。答えは決まっている。選択の余地などないのだ。己の意志で赴くか、連れ戻されるか、その違いだけだ。ならばせめて。
「一人ではまいりません。母上を…」
　母上を助けて。
「…いいだろう」
　ステッキが一振りされた。腕の中の母の呼吸が、幾分柔らかになった。
「治療は屋敷についてから。それで良いな？」
「はい」
　安堵して頷いた。父上は厳しい人だけれども、約束を違える人ではない。その父が約束してくださったのだ。母上は助かる。
　ルシウスが早くしろと顎をしゃくった。マルフォイは母を抱き上げようと、しゃがみ直し、肩を抱いて膝下から抱えた。傾けた上体の胸ぐらを掴まれた。

2003/06/29　　UP

２２

「信じては駄目！あの人は嘘ばかり」
「母上…落ち着いて。興奮なさらないで。大丈夫、父上は約束を違える人ではありません。ご安心下さい」
「いいえ。嘘よ。私は助からない。この魔法に治療法はないわ。…治療をしても無駄なの。約束だなんて…あなたを連れ戻すための方便でしかないわ」
「哀しいことをおっしゃらないでください」
「本当のことよ。でもいいことだわ。貴方は身軽になれるもの」
　なれませんっ。マルフォイは叫んだ。己の所為で母を死なせ、それを身軽と表現するなどできるものではない。
「あの人はね、ずっと貴方に嘘をついていたの。貴方を信頼して留守を預けたというのも嘘。貴方に自由を与えていたというのも嘘」
　驚きに、涙が止まった。
　突然なにを言い出すのか。父上は、僕が必要だから学業を切り上げさせてまで呼び戻したのだ。父の留守を預かり屋敷を護ることは僕の誉れだった。そのことをお話ししたとき、母上も一緒に喜んでくれたではないか。
「貴方がハリー・ポッターと親密なのを利用するつもりなの。ヴォルデモート卿はハリーポッターを恐れている。…殺そうとしている。ポッターも卿を憎んでいるわ。でもおまえの姿を手に入れれば、彼はもう手が出せない。それどころか、おまえになりすまして、彼を殺すこともできる。全ては仕組まれていたこと」
「…嘘…」
　みっともないくらい声が上擦っているのが自分でもわかった。
「ハリー・ポッターの傷はあの方と繋がっている。彼と交わったことで、あなたは間接的にあの方に近くなっている。取り込まれやすくなっているの。逃げて」
　ばれていた？
　心臓が握りつぶされたかと思うほど収縮した。
「なんだ。知られていないとでも思っていたのか。どこまでも愚かな奴だな」
　父がせせら笑った。
「今日ものこのことポッターに会いに行ったのだろう？私を欺いて」
「父…上？」
　呼吸が苦しい。心音がうるさい。
「会ってきたのだろう？ちゃんと抱かれたか？あれの精を受けてきたか？」
「…な…」
「ハリー・ポッターと卿は、ここの傷で繋がっているのだよ」
　ルシウスが額を指で示した。
「若く健康で潜在能力に恵まれた古い血筋。卿に最適な依代はハリー・ポッター本人なのだ。だがアレを捕まえるのは難しい。ダンブルドアが抱え込んでいるからな。それゆえ代用品を探すことになった。それがおまえだ。おまえは純血であるに過ぎない。そのままでは卿をお移しすることができない。あの方を移すには媒体がいる。器を繋ぐ通り道が」
　指でステッキを弄びながら、ルシウスが機嫌良く、謡うように語った。
「必要な媒体はハリー・ポッター。奴の肉体を構成するもの。可能ならば、おまえを浸すことができるくらいの血液が欲しかったのだが、まあこの際贅沢は言うまい。おまえは何処までも家名を汚す。競うべき敵の慰み者になりさがるとはなんたる恥さらし。まあ、今度ばかりはそれが役に立つのだがな。皮肉なものだ」
　揶揄するように鼻で嗤った。
「おまえのことだ。いらぬおしゃべりもしたのだろう？奴がのこのこやってくるのも時間の問題だな。そのころには卿の体だ。卿手ずから英雄気取りの小僧っ子を引き裂いて下さるだろう。卿復活の嚆矢にふさわしいセレモニーだ。そうは思わないか？」
　さも愉快げに問われた。
「では僕に戻れとおっしゃったのは…」
　学業を中断して父の仕事を手伝えとおっしゃったのは…。
「必要だから呼んだのだ」
　道具として、必要だから。

2003/07/01　　UP

２３

　唇が戦慄いた。泣くことも笑うこともできなかった。
「逃げ…なさい。早く」
　振るえる腕で胸を押された。
　逃げる？どうやって？
　父から逃れる術などない。どんな魔法も目くらましも父には通じない。ましてここはここはマルフォイ領なのだ。父の掌の上なのだ。逃げ延びる術など…。
　ひとつだけ方法を思いつき、マルフォイは新たな涙を溢れさせた。
　逃れる術があるとしたら、今ここで命を絶つことだけ。利用されないよう肉体をばらばらに引き裂いてしまうしかない。
　母上を残して？母上の目の前で？
　…それはできない。ここまでしてくださった母上の前で、それを無にするような真似はできない。でもそうしなければハリーが…。
　涙が止め処なく溢れた。
　悔しい。悔しい。悔しいっ。
　マルフォイは己を呪った。
　父の本性を見抜けなかった自分が。一人息子だという甘い幻想に浸かっていた自分が。期待されているのだという思いこみに酔っていた自分が。
　愚かさ故にこの事態を招いたのだ。己の所為で、今や母は死の淵にあり、ハリーの命を狙う計画が目前に迫っている。
　ハリー…。
　昼間の姿が脳裏に浮かんだ。
　今日も引き止めてくれた。真摯に僕を心配してくれていた。嬉しかったのに僕は逃げた。あの時捕まえられていたら、きっとここには戻らなかった。だから逃げた。ハリーが追いつけないようにと、脱兎の如く。
　でも本当は、怖かったんだ。
　追いかけてくれなかったらどうしよう。
　それが怖くて、振り向くことも足音を確かめることもできなかった。
　ああ、まただ。僕はまだハリーを疑ってしまう。僕はハリーを信じ切れていない。彼の想いにふさわしくない。
　ハリーが追いつけないよう一目散に逃げたのは僕じゃないか。
　どうして彼の心を試そうとばかりするのだろう。
　どうして、こんなに疑り深いのだろう。
　どうしてこんなに愚かなのだろう。
　母の身体を掻き抱いた。これが僕の現実。ハリーより大切だと選んだ家族の真の姿。これが僕の選択の結果。僕の愚かさの証明。
　父の予測通り、僕はハリーにヴォルデモート卿のことを話した。
　ハリーは僕を追ってくるだろうか？
　来るなと願う心と来て欲しいと思う心がせめぎ合った。
　このまま父の計画通りにことが運べば、僕がハリーにとって一番危険な存在になる。僕の体が凶器になる。僕がハリーを傷つけることになる。
　嫌だ。そんなこと、させるものか。
　ハリーの手元には、僕の石がある。僕がここで死ねば、あの石は砕ける。突然砕ければいくら脳天気なあいつだって不審に思うだろう。調べれば絡繰りにも気がつくだろう。そうなれば彼が僕を追ってここに来る可能性はなくなる。僕の姿をした卿に騙されることも…。
「いつまでそうしているつもりだ？時間がないと言ったろう？」
　焦れた足音が迫ってきた。
　ハリーは僕に家族になろうと言ってくれた。血がつながっていなくても、想いが伝わればそれが家族なんだと思いたい。僕は僕の家族を護りたい。道は母上が示してくださった。だからきっとわかってくださる。許してくださる。
「母上、ごめんなさい」
　僕はハリーを護りたい。
　母を地に横たえ、懐をまさぐった。指に馴染んだ杖に手をかけ、目を閉じた。

2003/07/04　　UP

２４

　激しい衝撃にはじき飛ばされた。マルフォイの体は草地に叩きつけられ、バウンドして転がった。懐で組んだ印も、唱えかけた呪文も中断させられた。痛みに咳き込んだ。血の味が口腔に広がった。
（杖！）
　マルフォイは顔を上げて取り落とした杖を探した。主同様草地に落ちた杖を、ルシウスが靴で踏みつけた。
「手間を取らせるな」
　苛ついた声で杖が振られた。突如夏草が直立し、ぐんぐんと伸びてマルフォイにからみつき自由を奪った。足掻くほど、その戒めはきつくなった。
「おまえはこの父に逆らうというのか？」
「…父…上？」
　マルフォイは縫い付けられた地面から父を見上げた。
　父と呼んでいいのか？子と思ってくださるのか？
　気持ちが揺らいだ。
「お仕置きが必要かな？」
　夏草がさらに伸び、マルフォイは宙に磔にされた。草の束縛が一度にきつくなり、肩が抜けそうなほど腕を捻りあげられた。マルフォイは痛みに啼いた。草の縁にこすれて頬が切れ、血が滲んだ。
「おや、装束を汚しては叱られてしまうな」
　指を弾く音がした。夏草が細くなわれたロープに変わった。
　敵わない。そんなことわかってた。だけど言いなりにはなりたくない。僕は貴方の道具じゃない。僕はっ。
　踵を返した父の背を睨み付け、拘束された腕を、力の限りつきだした。遠い父の背に掴みかかるように。
　その視界が突然まるくひずんだ。
　いびつな硝子越しのように景色がたわみ、突き出すように伸縮する。まるで見えない壁を向こう側から打ち破ろうとしているようだ。瞬きを忘れて凝視するマルフォイの前で、再度風景が突出し、ひときわ長く突っ張った。その頂点が引きつるように震え、音もなく裂けた。
裂け目から黒い塊が飛び出してきた。ひとつ。ふたつ。異物を吐き出した空間は、水滴が滴った水面のような波紋を描いてのち元に戻った。飛び込んできた黒い塊が、四肢を伸ばすように形を変えた。ばさりとはためいて広がったそれが、マントのようだと思った刹那、ぶつぶつっと音がして、体を縛っていたロープの感触がなくなった。
　落ちる！
　目を閉じて、体を堅くした。
　覚悟した衝撃は、しかし横からのものに取って代わられた。地面にたたきつけられるかわりに、黒い塊に抱きつかれ、抱えられるようにして着地した。
　なにが起きたのだろう？まち倦ねた卿がお出ましになったのだろうか。
　幼子のように体を縮こまらせて固く目を瞑って、マルフォイは次に起きるなにかに身構えた。
　ぽとり。暖かい感触が頬に落ちた。驚く間もなく、きつく抱きすくめられた。
　なにがおきているのだろう？次になにをされるのだろう？
　恐ろしくて目を開けられない。
　濡れた感触が、頬にふれた。暖かく柔らかい肌のような感触だった。
　おそるおそる上目使いに開いた視界で、ぴんぴんはねた黒髪が踊っていた。
「…っドラコッ！ドラコッ！ドラコッ！」
「…ハリー…？」
　彼に抱かれて頬ずりされているのだと、理解するより先に腕が動いた。ハリーの背に廻し、負けないくらい強く抱き返していた。
　追いかけてきてくれた。ハリーが。僕を。
　嗚咽が込みあげた。
　来るなと願っていたはずなのに。来るはずがないと、諦めていたのに。
　額を擦り合わせ、鼻先を軽く押しつけあった。懐かしい体臭が、吐息が、彼が本物であることを教えてくれる。安堵の溜息をすくい取られた。

2003/07/06　　UP>

２５

「…血の味がする」
　顔を上げたハリーが眉を顰めた。
　不甲斐ない自分が情けなくて、マルフォイは顔を背けた。左肩を強く掴まれ、強引に引っ張られて体勢を崩した。倒れ込むようにハリーの左腕で抱きすくめられた。彼の胸板に顔を埋める格好になり、呼吸を妨げられたマルフォイは顔を上げた。見上げたハリーは左肩越しに前を睨んでいた。
「あいつがやったんだな！！」
　ハリーの視線の先には、父と、もう一人の来訪者がいた。
　背中にかかる長い白髪。後ろ姿でも見間違うことはない。ダンブルドア校長だった。彼が間に立って、父を牽制してくれていたのだ。対峙する父は、動じた様子もなく静かだった。その静かさが空恐ろしかった。
「珍客ですな、ダンブルドア。歓待いたしますよ。特にお連れの方をね」
「いやいや、それには及ばぬよ。用がすんだら疾くお暇するでの」
「ご遠慮なさらず。ここは我が領内、客人は歓待せねば。で、御用向きは？」
　薄ら笑いをたたえ、父が慇懃に問うた。
「ドラコを返してもらいに来た！」
　ハリーが叫んだ。力んだのだろう。腕に力がこもり、マルフォイは彼の肩口に押しつけられた。息継ぎする勢いで顔を上げた。
「返せ？稀代なことを。それは私のものだ」
　顎をあげ、遠望するような仕種で父がせせら笑った。
「ドラコはドラコだ。誰のものでもない！」
「では、おまえが返せというのも筋違いではないのか？ポッター。おまえのものでもないのだろう？」
　冷笑を浮かべ揶揄する父に、言葉に詰まったのか、ハリーが息を呑んだ。
（…ハリー？）
　見上げた彼の顔は、怒りとはどこか違う形に曇っていた。苦しいのと痛いのとが混ざたような、体力作りのために散々マラソンをして、息が切れて倒れる寸前の表情に似ていた。
「今更なんの用だ？まだ抱き足りなかったのか？」
　露骨な問いに、マルフォイは顔が赤くなるのを感じて俯いた。
「ばれたの？」
　耳朶に吐息がかかる距離でハリーが囁やいた。マルフォイはこくんと頷いた。
　そう、なにもかもばれていた。必要とされていたのは、僕ではない僕。父には親子の情など存在しなかった。それを見抜けず、望んだ自分が愚かだったのだ。
「ここに残りたい？」
　重ねて問われて、激しく頭を振った。ここに僕の居場所はない。
「じゃぁ、僕と来てくれる？」
　嬉しげな声だった。見上げると、ハリーが覗き込んでいた。望んではならない。諦めなきゃいけない。そう思って、反らし続けてきたエメラルドグリーン。
「今度こそ、僕と逃げてくれる？」
　拒む理由も、自分を偽る必要も、ない。肩口に顔を埋めて頷いた。　
「…ありがとう」
　耳朶に触れた唇が、優しい響きを伝えてくれた。
　突然ルシウスが吹きだした。

2003/07/12　　UP

２６

　口元を手の甲で押さえながら、くつくつと笑っている。
「父上？」
　ハリーに肩を抱かれたまま、共に立ち上がったマルフォイは、その様に目を見張った。父のこのような様をみたことはなかった。昔、ダイアゴン横町の本屋でアーサー・ウィーズリーととっくみあいの喧嘩を繰り広げたときに匹敵する驚きだった。
「なにが可笑しい！」
　ハリーが怒鳴った。
「ドラコは僕がもらう。僕のだ！」
　見せつけるように抱き寄せられた。途端、父が声をあげて笑った。さも可笑しくてたまらないとばかりに。マルフォイは呆然とした。自分とハリーとの関係を嘲笑されている心地がした。
「笑うな！」
　ハリーが一喝した。憤っているのだろう、肩を抱く手が小刻みに震えている。マルフォイは彼の背に腕を回しローブを握りしめた。
「それで復讐したつもりか？ポッター」
　からかうような口調だった。
「なんだと！？」
「残念だったな、ハリー・ポッター。おまえの目論見など通じぬよ」
婉然とした笑みに、マルフォイは鳥肌が立った。
「私の息子を奪うことが、復讐だったか？私が怒ると思ったか？」
　目を眇め、顎をあげて、父は哀れむようにハリーを見た。どういうことだ？なんのことだ？復讐って？
「私はジェームズ・ポッターを知っている。そのやり口もね。おまえはあれにそっくりだよ。血というものは引き継がれるものだな。例外もあるようだが」
　冷ややかな一瞥に、身が竦んだ。
「まあ、淫売の言葉どおりならば無理もないが。我が家は代々優れたものが家督を次ぐ。直系長子とて無能であれば排斥する。この６年、それは我が家に相応しくない成績しか残せなかった。マグルの小娘に劣り、おまえに劣る。無様だ。息子と思えばこそ、機会を与えてきた。今や無用だ」
　胸を押され、崖から突き落とされた気がした。父にとって、自分はもう息子ではないのだ。あっさりと捨てて未練も残らない、そんな程度のものだったのだ。膝が震えた。立っていられない。それでもへたり込まなかったのはハリーが支えてくれたからだ。
　本心ですか！？父上！声にならない問いかけは、もはや自分に目を向けることのない父には届かなかった。
「ルシウス！貴様ぁっ！実の子だろう！？なんて事云うんだ！」
「それがどうなろうと、私は興味がない。おまえが小細工を労したことはしている。それゆえ、重用していない。いつ捨ててもいい駒だ。」
　駒？誰が？…僕？小細工ってなんだ？

2003/07/19　　UP

２７

「…なんの話だ？」
　マルフォイはハリーを見上げた。ハリーは父を睨め付けたまま動かない。応えのない不安に焦れ、父を仰いだ。
「お目出度い奴よ。それはおまえを欺いておる。おまえが私の息子だから手なずけたのだ。己の復讐の道具にするためにな」
「黙れっ！」
　ハリーが怒鳴った。父から引き離そうとか、肩を引かれた。マルフォイはそれを拒み、身を乗り出した。
「私がルシウス・マルフォイだから。おまえがマルフォイ家の人間だから。閣下に家族を奪われた恨みを、その側近たる私に晴らそうとしたのだよ。私からおまえを奪うことで意趣返しをしようとしたのだ。そしてあわよくば己のスパイとなるようにここに送り返した。そうだろう？ポッター」
「…だまれ！」
「…嘘…」
　ハリーが後ろから抱きしめてきた。マルフォイは身を捩って拒んだ。
「嘘なものか。大切なら、どうして手放す？なぜみすみす敵地に送り返す？おかしいと思わなかったのか？何処までも愚かだな、おまえは」
　…それはハリーが僕の気持ちを優先させてくれたから…。だから僕はハリーのために…遠く離れても、彼を護ろうと…。だけど、だけど、どうして！？どうして父の言葉に反駁できない！？…だって、つじつまが合うじゃないか。僕が在校中ずっと不安で居たたまれなかった違和感が、それなら納得できてしまうじゃないか。
「馴れ合うなと忠告したはずだ。私は。私の言葉に背くから、こんなことになるのだ」
　深い溜息が吐かれた。
「マルフォイの後嗣の座、私の期待、母の名誉と命、純血の誇り。それの甘言に乗せられて、おまえは全てを失った。その見返りに得たものはなんだ？」
　それはハリーの心だと、言い切る自信は消え失せていた。
「誇り高き純血が、混血風情に飼い慣らされて、無様この上ない」
　それは校内で囁かれたあの噂と同質の憐憫だった。「ハリー・ポッターは上手くやった。あれだけの上玉。都合のいい恋人。妊娠の心配の要らない無料のセックスフレンド」
　マルフォイは崩れるように膝をつき、両手で自分を抱きしめた。ふるえが止まらない。自分が信じたものが、よすがとした思いが、根底から崩れてゆく。
「おまえは昔からそうだったな。直視したくない現実から目を背け、勝手都合のよい言い訳や八つ当たり、逆恨みで憂さを晴らす。クイディッチで勝てぬのは箒の性能の所為だったかな？」
　己の醜さを暴き立てる父の言葉に、マルフォイは頭を抱えて蹲った。聞きたくない！聞きたくない！聞きたくない！！
「訳知り顔で他者を酷評し、短所をあげつらって己を誇る。愚かな振る舞いだ。それが肝心の勝負で役に立ったのか？ん？」
　なかった。生まれや過去や、当人の努力では変えられない引け目をなじって、マルフォイの財力と権力をひけらかしても、後味の悪さが残るばかりだった。グレンジャーの生まれをけなしても、成績は敵わなかった。ハリーの過去を罵っても、箒を買い換えても、試合には勝てなかった。だけど自分自身が劣っているのだと、それを認めるのが嫌で嫌で、あらを探しけちを付けては、自分の所為じゃないと思い込もうとしていた。僕は悪くない。だから相手が悪いのだと。『卑怯者！』叩きつけられる侮蔑の言葉を、恵まれた者への妬みと聞き流して。
「マルフォイを放逐されたおまえに、なんの価値がある？」
　ない。なにもない。僕にはなにもない。
　助けて。誰か助けて！
　叫びは声にならなかった。誰もいないのだ。縋る相手など。父もハリーも、自分を利用していただけだったのだから。
　有能であれば誰でもよかったマルフォイの後嗣。マルフォイの子弟であれば誰でもよかったハリーの復讐。どちらも僕でなければならない必然性などない。
　声も涙も出なかった。胸が焼けついたみたいに痛い。
「とうさまはもう駄目なの。もう、誰も救えないの。私も、貴方も、もういらないの」
母の言葉が蘇る。これが母の味わった苦しみ。僕が、ハリーの誘いに応じていたら味わっただろう屈辱。
　死ねばよかった。もっと早く、騙されたまま、なにもしらないままに。そうしたらこんな惨めな思いはしなくて済んだのに。僕の信じていたものは、なにもかもまやかしだったなんて。

2003/07/26　　UP

２８

　呼吸のできない苦しさに喘いだ。
「ドラコッ」
「触るな！！」
　肩に触れたハリーの手を、全身で拒絶した。
「僕を信じてっ」
「…信じられ…ない…」
　薄々感じていた。ハリーの虚偽。これがカラクリ。僕はそれを直視したくなくて、ずっと目を背け続けていただけだったんだ。
「聞いて！ドラコ」
「聞きたくない！もういい！！」
　もういやだ。夢なら覚めろ。現実ならば僕を消せ！
　遮二無二振り回した腕ごと、ハリーに抱きすくめられた。
「嫌だっ！離せっ。僕に触るなっ！！」
　もはや束縛にしか感じない腕。マルフォイは死にものぐるいで振り払おうと足掻いた。
「ルシウス！いらないなら僕がもらう！もともとドラコは貴様とお母さんのために戻ったんだ。おまえがそんななら、ドラコは必要ないだろう！」　　
「それは困るな。必要なのだよ。こちらの事情でね。ドラコ。戻れ。この父の命令だ。背くことは許さぬ。その女も私にしか癒せぬ」
「その女？母上です！！父上の妻でしょう！」
　顎をしゃくる仕種で母を指されたことに、マルフォイは激昂した。
「淫売など妻ではない」
「では僕はなんです！僕は母上から産まれた…」
「心配はいらぬ。それの火遊び相手などとうに把握している。マルフォイの家筋だ。おまえがマルフォイ家の血を引くことに違いはない。サラザール・スリザリン最後の子孫たるあの方の依代が、我がマルフォイ家からでるのは喜ばしいことだ。それが家督を継ぐべき長子とあればなおのことな」
「父上…」
　その口振りに絶句した。母の不貞をまるで他人事のように言い放つ父。とうに終わっていたのだ、この夫婦は。
「疾く戻れ。ぐずぐずしていると、あれが死んでしまうぞ？」
　残酷な手が突き出された。
「その魔法は私にしか解けぬ。わかるな？」
「治療法はないと…」
「それが知らぬだけだ」
「では！」
「おまえ次第だがな。どうするね？」
　マルフォイは白い手を凝視していた。
　あの手を取れば、母は助かる。徒労に終わった逃亡劇、母に全てを捨てさせたのは、自分がハリーに騙されていたから。それがなければ、母はこんな無茶な行いなどしなくてよかった。僕は、全てを賭してくれた母に酬いたい。
　立ち上がろうとして、ハリーに押しとどめられた。
「…離せ」
「嫌だ！」
「僕に触るな。…汚らわしい」
「ドラコッ。駄目！」
「僕に指図するな！貴様には関係ない！母上をお助けするんだ！」
「だったらなおのこと、ルシウスに騙されちゃ駄目だ！！」
「黙れ！」
　体を捻り、肘でハリーの顎を突き上げ、戒めをといてまろび出た。動きづらい衣装を引きずり母の元に走った。
「母上！」
　地に伏す体を抱きしめた。呼吸も脈も、まだある。声をかければ反応もする。大丈夫、まだ間に合う。
「父上！約束です！母上を…」

2003/07/29　　UP

２９

　皆まで言えなかった。服を引かれたのだ、腕の中の母に。
『駄目』
　声はない。ぎこちなく動く唇の形が、母の意志を息子に伝えた。
「邪魔をするな」
　ルシウスがステッキを振った。稲妻が走る。母を抱きしめ体を伏せたマルフォイの前で、落雷の弾かれるような音がした。顔を上げた先に、ダンブルドアの背があった。彼が魔法をはじき返したのだ。
　掌を前にかざしたまま、後ろを振り返って微笑みかけてくれた。
「帰ってきなさい。ホグワーツは学生のホームじゃ」
「僕は退学しました。もう生徒ではありません」
　ダンブルドアが、ゆっくりと首を左右に振った。
「休学しておっただけじゃ。父兄の同意も得ておるよ」
「父兄？」
「お母さんじゃ」
「母…上？」
　マルフォイは腕の中の母を見つめた。
「そうだよ！君は休学してただけだ！みんな待ってる。ゴイルもクラッブもハーマイオニーも！僕も！」
　ダンブルドアの横に立ち、父にむかって杖を構えたハリーが叫んだ。
「残念だったな。ハリー・ポッター。父上は僕を見限られた。もうなんの役にも立たない」
「ごめん…。恨んでいいから、僕のこと罵倒してくれていいから。帰ろう？ホグワーツに」
　否定しない…ということは、父の言ったことは事実だったわけだ。全く嫌になる。こいつが、嘘をつくときほど雄弁になり、その逆の時には寡黙になる癖なんて、気がつかなければよかった。
「おまえなんか大嫌いだ」
「それでいい。僕は君が好きだから」
「僕は嫌いだ」
「うん」
「嫌いだ」
「うん」
「生きていてくれるだけでいいから…。生きていて欲しいんだ」
「勝手なことを言うな！」
「ごめんね。嫌われるのが怖くて、本当のこと言えなかった」
「本当のこと？」
「騙してた。自分に言い聞かせてた。君はマルフォイ家の人間だから、好きになっちゃいけないって。君に感じた愛しさも切なさも全部錯覚だって」
「いつから？」
　返事はなかった。それでわかった。最初から打算で始まった関係だったのだ。意趣返しの強姦、都合のよいセックスフレンド、ルシウス・マルフォイの動向を探る道具。それが彼にとっての僕の全てだったのだ。
「さぞ愉快だったろうな」
　この僕を手玉にとって。

2003/07/31　　UP

３０

「…苦しかった」
　見上げるハリーの背が、激しく震えた。
「？」
「大嫌いだった君に仕返しできて、清々したはずだった。君を利用するだけ利用して、ルシウスに当てつけてやったらどんなに愉快だろうって、そう思ったのに。…全然愉快になれなかった。いらいらするんだ。満たされないんだ。家族の心配ばかりする君に腹を立ててばかりいたんだ。なんであいつらんだ？どうして、どうして僕を一番にしてくれない？」
　わめき散らしながら、地団駄を踏み、終いには膝を詰めるようにして躙り寄ってきたハリーに圧倒された。
「ハリー？」
「誰よりも大切にして、甘やかしてあげたじゃないか。欲しい言葉も、ハグも、たくさんたくさんあげたじゃないか。それなのに、どうして…君は僕より親を選ぶんだっ。僕は二の次なんだ？僕を想ってくれないんだ？」
　馬鹿かこいつは…。
「家族に優先順位をつけるなんて、そんな真似できるか」
　ハリーが、唖然とした顔つきになった。
「一番大切な誰かのためじゃない。みんなが幸せになる方法を考えるのが家族だろうが。この阿呆」
　だから僕は、ここに戻ったんだ。父上と母上の為に、ハリーおまえのために。
　そんな当たり前なことすらわからないのか。そんなことも知らないで家族を欲したのか、こいつは。そんなことも知らないほど、家族に飢えていたのか。
　家族が欲しいって、ないものねだりばかりして、それがどんなものかがわかってなかっただなんて。とんだお笑いぐさだ。
　膝をついたハリーの双眸から涙がこぼれた。不思議な光景だった。あのハリーが、こんな風に静かに泣くなんて。
　家族を知らないハリーの、永遠に満たされない魂の枯渇に触れた気がした。
「大馬鹿者が…」
　悪態しか思い浮かばなかった。
　不思議だった。ハリーの言葉がすとんと響いてくる。彼が父上に嫉妬していたなんて。怒鳴り散らすくらい僕を欲していたなんて。まいったな。僕も気づかなかった。
「ごめんっ、ごめんね。君がいてくれるのが当たり前になりすぎてて、判らなかったんだ。いなくなってはじめて判った。空気みたいに当たり前なのが家族だって」
　なるほど、手放してはじめて僕のありがたみが理解できたわけか。だから会いに来たのか。しつこく誘ったわけか。
　氷が溶けるように、蟠りが解けてゆく。全てがつながる。なめらかにひとつになる。よりにもよって、とんでもない阿呆を好きになってしまったものだ。全く。
　手を伸ばし、拭う素振りもないハリーの涙を指で拭った。
「馬鹿ハリー。貴様にこの僕は勿体ない」
「うん…うん」
　マルフォイの手を押し戴くようにして頬ずりし、ハリーが何度も頷いた。