WILD　CHILD　〜極光〜



５５




　頬に触れる外気が冷たい。マルフォイは無意識に肩を竦め、肩口に顔を伏せて暖を求めた。
「……」
　名前を呼ばれた気がして、長い睫毛がぴくりと動いた。
「マルフォイ。起きろ」
（嫌だ。起きたくない）
「マルフォイ」
（その名で呼ぶな）
「ドラコッ」
　耳元でひときわ大きく呼びかけられ、マルフォイは夢路から引き戻された。視界いっぱいに白い朝霧が広がっていた。天上はまだ青みがかっている。
「見ろよ。朝日が昇る」
　もたれ掛かっていた壁が動き、それが人の腕だと知れた。指さす先では、黎明の新しい光が雲を突き破って姿を現しはじめていた。
　眩しさに目が眩む。マルフォイは肩口からそっと後ろを振り返った。ハリー・ポッターが鼻頭を赤くして空を見上げていた。こんなところにいて凍えなかったのはそういうことだ。ローブにくるまれて、ハリーの四肢に包まれるようにして抱かれていた。
「寒く…ないの？」
　五月とはいえ、明け方は冷える。塔の最上階では尚更だ。この寒空に奴はコットンシャツ一枚でいた。
「暖かいよ」
　言葉と共に抱きしめられた。
「僕のこと、嫌いになった？」
「なった？もとから大っ嫌いだっ！」
「そう。よかった」
　ハリーが満足そうに笑った。
「君のそれは、意味が違うからね」
「なんだと？」
「君の大嫌いは大好きと同義語だ」
「馬鹿か。違うっ」
「違わない」
「違ってる！嫌いのものは嫌い！僕は初めてあったときから、おまえが僕を拒んだあの日からずっと…」
「僕のこと、気になって仕方なかった？」
　覗き込むようにして問われ、マルフォイは言葉に詰まった。
（虚勢を張っても無駄だ。胸の内は洗いざらい喋ってしまった。こいつに）
　眦に涙の粒がふくらんだ。
「おまえは卑怯だ。ポッター」
「そうだね。そうかもしれない」
　眦にキスされ、涙を啄まれた。抱きすくめられ、肩口に顔を埋められた。
「暖かい」
　うっとりするような口調で呟かれて、頬が火照った。
「痛っ」
　両腕を痛いくらいに掴まれ、強引に向き合わせられた。
「僕に目標をくれないか？」
　まっすぐに見つめられて、怖くなった。
　朝日に照らされてなお暗い瞳。こんな色だったろうか？彼の瞳は明るいグリーンだったはずなのに。グレンジャーやウィーズリーといる時の彼は。こいつは誰だ？この暗い沈んだ暗緑色は。
「誰もが、僕がヴォルデモートを倒すのだと思ってる。僕がそうするのが義務だと思ってる」
「寝言か？ハリー・ポッターが有名なのはそのためだろう？なにを今更」
「狡いよね。望みもしない英雄扱いをして、その対価に化け物を倒せという。倒したところでどうなる？」
　ハリーは笑おうとして失敗したような、酷い顔つきになった。
「そうあるべきだと期待した人たちは、義務を果たしたと思うだけだ。平和になったと喜ぶだけだ。他人本位も甚だしい。僕はなにを手に入れることができる？なにもない。ヴォルデモートを倒しても、父さんも母さんも生き返らない。彼を倒しても、過ぎた時間をやり直すことなんてできない。僕はなにひとつ変わらない。だのに、どうして命をかけて彼と戦わなきゃならないんだ？！」
　荒れた語気に、理不尽さに対する憤りがあった。
　マルフォイはハリーの頬を両手で包んだ。
「怖いのか？」
「違う。父さんと母さんを殺して、僕の育つはずだった暖かい家庭や人生を狂わせたヴォルデモートは憎い。僕にその力があるなら、僕は誰かに期待するのではなく、僕自身の手で、借りを返してやる」
「それは目標にならないの？」
「ならない。動機に過ぎない。考えてよ。事を成し遂げても、僕はなにも得られないんだ。こんな割に合わない話ってあるかい？」
　ひょいっと肩を竦め、ハリーが問うた。
「打算的だね。ポッター」
「ハリーだ」
　マルフォイは手を引っ込めようとした。左手首を掴まれ、指先をハリーに甘咬みされた。
「わかったよ。では、ハリー。君はなにを望むんだ？」
「君」
「僕？」
「そう、僕と来て」
「できない。…それはできない」
　マルフォイは動揺を隠せず、後ろに身を引いた。
「マルフォイの名は捨てられない？」
「僕は、父上の望みを叶えて差し上げたい。僕には父上も母上も大切な家族だから。父上の望みは君と正反対だ。知ってるだろう？僕は君と一緒にあの方と敵対することはできない」
「そういうと思った」
　ハリーは安心したような笑みを浮かべた。
「それでいい。君は君の望むように生きればいい。だけど、もし僕がヴォルデモートを倒したら、君の父上はなんという？「英雄のハリー・ポッターと仲が悪いのは不味い」って、そういわないかい？」
　ハリーの脳天気ともいえる発言に、マルフォイの目元に険が差した。　
「そういう前に、父上は生きていないかも知れない。父上はこちらに戻ったことを後悔されている。あの方が復活したら、きっと父上はその麾下へはせ参じる。あの方のもとで理想を実現するか。ハリー、君にあの方と共に倒されるかだ。そうしたら、今度は君が僕の敵になるんだ」
「ヴォルデモートが力を失ったとき、一番にこちらの世界に戻ってきたのは、君の父上だった」
「嫌な奴だな。そうさ、だから父上を蝙蝠と呼ぶ奴もいる。父上は…」
「ごめん。責めているんじゃないんだ。下るのなら、誰かが必ず一番になる。そして非難の矢面に立たされる。その人が敵方の高位であればある程ね。そのかわり、その他の人々はずっと下りやすくなる。勇気の要る行動だよ」
「…本当にそう思うの？」
「うん。あんまり疑われると、ひねくれたくなったり、下ったの後悔したくなるときもあると思うけどね。…なんで泣くの？」
「…ありがとう。父さんのこと、裏切り者だって云わないでくれて、ありがとう」
「本当に君は家族思いだね。君の家族が羨ましい」
　ハリーは目を細めた。
（こういう風に思われたい。こう思ってくれる家族が欲しい。マルフォイが欲しい。マルフォイにそう思われたい。）
「だから、あの人を倒したら、僕のものになってよ」
「君の？」
「そう。僕の家族になって」
「家族？」
　マルフォイは涙を拭って、不思議そうな顔をした。
「辻褄の合わない話だな。マルフォイ家に養子に入りたいのか？」
「…なんでそうなるんだ？」
「違うの？」
「かなりね…」
「じゃあ、僕にポッター家に入れっていうのか？…けど、君のご両親は亡くなっているから、養子縁組はできないぞ？無理じゃないのか？僕も君も一人っ子だし…。ああ、マルフォイ家が養女をもらって君に嫁がせれば可能か」
「英雄の家族じゃ不満？」
「馬鹿か。だいたい厚かましいぞ。むちゃくちゃな話じゃないか？。君があの方に勝てる保証があるのか？」
「君が僕の目標になってくれたら」
　にっこりと断言されて、マルフォイは顔に火がついたかと思われるほど赤くなった。
「…口説いているのか？ひょっとして？」
「そうだよ。ホント、鈍いな」
「う、うるさい」
「返事は？」
「…僕に、選択の余地があるなんて思えない」
　目線を反らして呟いた。ハリーが吹き出した。抗議しようと顔を上げた途端、抱きしめられた。
「ありがとう。僕頑張るね」
「馬鹿っ」
「はじめて会ったときは、お互い最悪だったのにね。君がこんなに可愛いなんて、もっと早くに知るべきだった」
　褒め言葉じゃないと思った。けれども怒りは湧かなかった。もう、嫌われているわけではないのだ。嫌われてなどいないのだ。じんわりとした熱さが体中に広がり、美酒に酩酊したような心地に包まれた。
　頬を包むように、ハリーの手が添えられた。
「…なに？」
「…キスしていい？」
「…したこと…なかったな」
「うん。最後の聖域だ」
「なにそれ？」
「他は全部味見済みだもん」
「大概無礼な奴だな」
「そうだよ。だから…」
　強引に、キスされた。嫌じゃない自分が、癪だった。

　
2002/2/7　UP

←　　→